【ぼんやりとした不安】
ここまで、昭和3年のイデオロギーに影響された世相を見てまいりましたが、もりちゃんは次に文学、つまり日本近代文学上において、昭和3年が重要な年であったことを語ります!「それって、もりちゃん、昭和歌謡に関係するの?」当然ですよ!少し昭和3年の文学的・精神的な部分を見ていきたいと思います。これも、昭和歌謡を知るうえで、貴重な知識でありますぞ!もりちゃんは日本近代文学を語ります!
前年の昭和2年の夏、7月24日に、「何か僕の将来に唯ぼんやりした不安」という遺書を残し、芥川龍之介(1892-1927)が致死量の睡眠薬を飲んで東京田端の自宅にて自殺しています。彼は、師匠の夏目漱石(1867-1916)よりもキツイ神経衰弱に悩まされていたらしく、5月にも帝国ホテルで自殺未遂をしておりますな。彼の葬儀には千名を超える参列者があったとか。
明治から大正時代に至るまで作家は神経衰弱に侵されていなければ作家ではなかったのかもしれませんな。佐藤春夫(1892-1964)は大正9年に神経衰弱に罹り帰郷しているし、谷崎潤一郎(1886-1965)も大正元年に神経衰弱が再発したとか、芥川の友人であった宇野浩二(1891-1961)も芥川の亡くなる1ヶ月前(昭和2年6月)に神経衰弱で入院しています。芥川は「宇野の病気でみんな恐慌をきたしているよ。いつ自分達がなるか解からないって」(広津和夫「あの時代―芥川と宇野」)と言っていたとか。でもね、芥川以外は神経衰弱に罹ったけれど、昭和30年代まで生き延びて長生きしてますよ!芥川も、もう少し慎重であればなあ?便乗したつもりが、皆さんはバスから降りていたって訳ですな。
神経衰弱の原因は、いろいろあるようですな。生存競争に勝っていけないとか、女性関係の縺れとか、何のために生まれてきたかとか、病弱からの不安とか、芥川のような「何か僕の将来に唯ぼんやりした不安」とか、いろいろです。おそらく、これは急速な近代化の中における自己との葛藤なのでありましょう!煎じ詰めれば、「自己と他者」の問題ですな。これは、日本近代文学のテーマであります。
【「暗夜行路」自己の絶対化】
さて、夏目漱石は「他者」を意識したテーマの作品を多く残しています。「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」という名文句が象徴しております。彼は晩年に「われは常住日夜共に生存競争裏に立つ悪戦の人である」と「思ひ出す事など」で書いております。「自分で自由に生活することなんぞできない。何故なら、そこにはいつも他人がいるからだ」ということであります。
昭和3年には、志賀直哉(1883-1971)の「暗夜行路」の後編が雑誌「改造」6月号から連載されています。(「行路」ですぞ、「航路」だと、平成元年(1989年)に都はるみがプロデュースしたキム・ヨンジャのヒット曲「暗夜航路」作詞:吉岡治、作曲:弦哲也になってしまいますよ!歌謡曲通はこだわります!)この小説の主人公である時任謙作は、自由に放浪の旅をして自由奔放に生き、「他者」を抹殺して「自己」を絶対化した人物として描かれていました。これだと神経衰弱にならないですな。昭和2年の芥川龍之介と昭和3年の志賀直哉では、生き方がまったく違いますな。日本近代文学および昭和の精神史を語るうえで、この時代の境目は大変貴重ではありますまいか!いやはや、もりちゃんは昭和歌謡を語るべくして、文学論を展開してしまいました!勉強になるでしょ!
【張作霖爆殺事件】
さてさて、もりちゃんの昭和3年についてのウンチクは、いつまで経っても終わりそうにないですな。それだけこの年は、いろいろな事が起こり、時代が変わる最中であったと言えますな。日本陸軍が満州を勢力下に置こうと動き始めた年でもあったのです。
志賀直哉の「暗夜行路(後編)」が雑誌「改造」に連載され、文学青年が「志賀直哉は流石に文章がうまいな、小説の神様だ!」なんて言ってる頃、6月4日早朝に「張作霖爆殺事件」が満州で起こりました。この事件は、別名「満州某重大事件」と言われております。何故そのような名が付いてしまっているのか、もりちゃんは語ります。
張作霖(1875-1928)さんは、満州の馬賊からアヘンなどの密売で資金を得てのし上がった軍閥で、日露戦争当時に、ロシアのスパイをやっていて日本軍に捕まったものの、処刑寸前にその才を認められ、当時の陸軍参謀次長の児玉源太郎や少佐の田中義一(爆殺事件時の首相)に説得されて日本のスパイとなり、その縁で満州において日本陸軍(所謂「関東軍」)との関係が深くなったとされている御人ですな。
大正6年(1917年)には、張作霖さんは、「東三省(満州)独立」を宣言して、さらには中国全土をも掌握しようとその勢力を強大にして、北京を一時制圧した程で、大元帥にもなった野心家であったとか。張作霖さんは、愛人をなんと30人も囲っていたとか・・・。いやはやバイタルなおじさんですな。恐れ入ります。
【関東軍・張作霖・蒋介石】
庶民が知らぬところでひどいことが、軍部によって引き起こされたのですな。日本陸軍(関東軍)は張作霖さんを操っていたつもりだったようですが、本人はそんなことを気にせずに、関東軍の後ろ盾で1911年(明治44年)に辛亥革命を起こして中国統一を目指していたあの孫文さん(1866-1925)と蒋介石さん(1887-1975)の「国民党軍」と戦ったり、毛沢東(1893-1976)の共産党軍と戦ったりしておったようですな。
ちょっと、余談ですが、蒋介石さんは、明治40年(1907年)に日本の陸軍士官学校に留学しに来ていて、陸軍士官学校を出てから、明治42年~44年(1909年~1911年)まで日本陸軍に勤務していたんですって。彼が親日派だった理由はここにありますな。そう言えば、孫文さんも日本に一時亡命していますな。
張作霖さんが関東軍の言うことに聴く耳を持たずに「国民党軍」と戦っているので、おそらく関東軍はいろいろとヤキモキしていたのでしょう。蒋介石さんも日本陸軍にいたことがあるので日本と直接戦うことは考えたくなかったかもしれませんが、関東軍は、「国民党軍」と戦うより満州の守備固めに専念したほうがよいと考えたようですな。
「国民党軍」に負けて北京から満州の奉天(現在の「瀋陽」)に列車で逃げ帰ってくる張作霖さんを爆殺することを関東軍の高級参謀の河本大作大佐(1883-1955)が策謀したと言われています。彼は、北京と奉天を結ぶ京奉線で奉天駅近くの満鉄線と交差する地点に爆弾を仕掛け、張作霖さんの乗る列車を爆破しました。ここには現在、日本の関東軍の策謀により張作霖さんが爆死した旨を記した碑が立っています。こんな事実は教科書には詳しく載っていませんでしたな。これって、教科書検定にひっかかる内容かなあ?
【情けなや!田中義一首相】
張作霖さんは即死ではなかったようで、自邸に運ばれ、五番目の奥さんに看取られながら事件から四時間半後に亡くなったそうですな。この事件が日本で報道されたのは、それから2週間以上も経った6月22日です。関東軍は二人のアヘン中毒の中国人を雇い、犯人に仕立て、「捕まえて刺殺した」と発表しています。
首相の田中義一は、天皇の側近で元老の西園寺公望さん(1849-1940)に「しっかり調査をすべきだ。いつ天皇に報告するのだ」と問い詰められるんですな。すると首相は「11月10日の京都御所での昭和天皇の即位の礼が済んだら、天皇に報告します」と言うんですが、先延ばしにしてしまいます。
田中義一首相は12月24日に昭和天皇からこの事件の報告を求められ、「犯人は陸軍の者であるようです。犯人が分かれば厳しく罰します」と答えます。ところが、実は関東軍だけの仕業ではなく陸軍大臣、陸軍省や参謀本部も絡んでいたという事実があったために、有耶無耶にして済まそうとしたようですな。
いやはや、この時、既に日本陸軍は得体の知れない組織になっていたのでありますな。陸軍出身の総理大臣でさえも、コントロール不能!あるいはコントロール不能の人をあえて総理大臣にしたのかもしれませんな。権威・権力・名誉を得てしまった人間で構成された組織というものは、こっくりさんのように思わぬ方向に進み、あれまあ、あれまあで、いい加減なことになるのでありますな。これは、現代にも通じる人間の浅はかな性(さが)でございます。ああ情けなや!
【若き昭和天皇の怒り!】
次に、もりちゃんは、「張作霖爆殺事件」が昭和天皇にどのように報告されたかを語ります。歴史には、くだらない意外な真実があるのですな。
当時26歳の若かりし昭和天皇は、それからまだかまだかと田中首相の報告を待ち続けますが、一向に報告はありませんでした。天皇の側近たちが、かなり催促したのでしょうか、翌年昭和4年5月6日に田中義一首相は宮中に赴きます。「あの事件に日本陸軍とは一切関係していない」「張作霖を警備できなかったのは関東軍に責任があるので行政処分を行う」と報告したのであります。
当初は「関東軍が関係している」と報告しておきながら、それを翻し、軽い行政処分で終わらせたいとする田中義一首相に対し、天皇はお怒りになり、「辞表を出せ」と強く仰せられたのでありました。6月27日に昭和天皇は田中義一首相に辞職を促しています。
にもかかわらず、田中義一首相は、28日に河本大佐らを軍法会議でなく行政処分にしたため、天皇は田中義一首相を再び宮中に呼びつけ「辞めるように!」と告げられたということであります。田中義一内閣は、7月2日に総辞職しました。そして、田中義一は、心労が重なったのか、9月29日に亡くなっています。時の首相も組織の中で翻弄され、結局は命を縮めることになるのですなあ。