【ラジオで相撲を!】
「波浮の港」が流行りました昭和3年とは、どんな年であったのでありましょうか?歌は世につれ、世は歌につれと申します。昭和歌謡のウンチクを語るには、その歌が流行った時代の背景を語らねばなりません。さてさて、昭和3年とは、どんな出来事があったのでありましょうか?
いろいろと調べますと、昭和3年はこんな時代でありました。まず、1月には、お相撲のラジオの実況中継が始まっていますな。ラジオ放送は大正14年(1925年)から始まっておりまして、夏の高校野球(当時は、全国中等学校野球大会)が昭和2年の8月13日に実況中継されておりますな。それまでは、「移動無線中継装置」というものがお上(逓信省)に認められず、マイクロフォンが屋外に持ち出されることがなかったのであります。ラジオの威力で、夏の甲子園が全国に知られるようになったのでありますな。
お話を昭和3年に戻しますと、お正月の気分覚めやらぬ12日からお相撲のラジオ実況中継が始まり、お相撲の人気もラジオの威力で全国に広まりましたな。長屋のご隠居さんも熊さんは八つぁんも、火鉢に当たりながら、ラジオを聴き、相撲談義をしていたのでありましょう!目に浮かぶようでありますな。この年の東京におけるラジオ聴取契約者数は13万人と言われています。マスコミュニケーションの幕開けでありますな。
【日本最初の総選挙】
さてさて、昭和3年2月になりますと、日本最初の普通選挙が実施されましたな。話は大正12年(1923年)にさかのぼることになりますが、1月20日に日比谷公園の松本楼にて、新聞記者などが集まって、「国民生活の安定と否とは主として政治の良否に繋がり、政治の良否は主として制度の適否に関す。普通選挙の急務にして、断行の一日も緩うべからざるは、国論既に一定せり。」という宣言が採択され、普通選挙運動が日本で始まったのであります。
翌2月23日には、芝公園にて代議士はもちろんのこと婦人参政権を求めるご婦人たち、隣近所のおじちゃんおばちゃんたち一般民衆も集まるは集まるはで、実に2万人も集まって大集会が開催されたといいますな。一般庶民には「フツウセンキョ」が何か、トンとわからない。何の集まりか知らずに、物珍しさでついてきた人もたくさん居りましたようでありますな。ポチやミケの野良犬や野良猫も一緒についてきたようでありますな。それはそれは、お祭りのようであったとか。これが、所謂「大正デモクラシー」でありますな。
【大衆の時代】
大正7年(1918年)11月に第一次世界大戦が終結し、民主主義が世界的に広まったといいます。この情勢を背景に、日本でも東京帝国大学教授であった吉野作造先生(1878~1933年)が「国家の活動の基本的目標は政治上人民に在るべし」と唱える民本主義が大正デモクラシーの理論的支柱となって、普通選挙運動が展開されたということでございますな。
世間がこんなに大騒ぎになっているのに、いつの時代も同じようで、政府は重い腰をなかなか上げようとはしなかったようでありますな。ここで、日本史の質問ですが、大正デモクラシー時代の総理大臣は誰かと聴きますと、皆さん「原敬」をあげますな。原敬が第19代総理大臣の要職にあったのは大正7年(1918年)9月から大正10年(1921年)11月の1133日間でありました。
ちなみに原さんが首相をしているこの間、スペイン風邪と呼ばれた鳥インフルエンザが日本にも上陸し、世界大戦が終わった11月には、関西で大流行し、大正10年までの3年間に発病者は当時の日本の人口が5470万人だったのに対して2380万人、10人に4人が鳥インフルエンザに罹った訳で、死者は39万人にもなったとか。すごく恐ろしい状況でしたのですな。映画「鳥」で鳥の恐ろしさを描いた監督ヒッチコックもびっくりですな。原さんは、総理大臣として普通選挙制度に直接関わったのではなく、皆さん良くご存知の米騒動と鳥インフルエンザ対策に関わったのであった訳ですな。
お話が反れてややこしいのでありますが、あの芝公園での普通選挙運動の大集会があった大正12年(1923年)2月の総理大臣は、第21代加藤友三郎でありました。政府がようやく腰を上げ、官報の号外を出して、衆議院議員選挙法改正法の裁可を報じましたのは、2年後の大正14年(1925年)5月5日でありました。その時の総理大臣は第24代の加藤高明で、衆議院議員選挙法改正法の施行令案が内務省から発表されたのは、大正15年(1926年)1月29日でありました。
いったい総理大臣は何人変わっているのでありましょうか?ひ~、ふ~、み~と数えますと、6人ですよ。へぇ~っ、ぶったまげますな。政治家の政治家による政治家のための政治でありますな。これが大正デモクラシーですか!
こういうこともあってか、昭和3年(1928年)2月20日に行われた普通選挙の結果は、与党の政友会が過半数を獲れず、野党の民政党が政権を獲りました。大衆の力による大衆時代が日本に訪れたのでありますな。そのような時代の流れの中、4月に「波浮の港」は発売されたのであります。
【マネキンガール登場!】
歴史には、政治的な流れ、文化的な流れとかがあります。文化的な流れをご紹介しますと、3月24日に上野公園で御大礼記念博覧会が開催されました。デパートの高島屋が(いやいやその頃は「高島屋呉服店」と言っていましたな。)、展示場で和服の出品をしたのでありますが、普通は人形のマネキンに和服を着せて出品したと思いきや、ファッションモデルの走りとでも言いましょうか、出品の和服を着た人間の女性のモデルが登場しました。これを「マネキンガール」と呼びまして、正式な職業名は「美装員」と言いましたそうであります。
これがかなりの評判となったそうでありまして、お兄さん、お父さん、おじいさん、洟垂れ坊主やオス犬のポチまで、男性諸君はすべからく、「御大礼記念博覧会に行ってくる」とかなんとかと言いながら、マネキンガールを見に、上野公園に向かって走ったそうであります。ホンマかいな?
もともと、マネキンガールは、この年の1月に京阪神のデパートが協力して新聞広告を出したことに始まります。「評判娘急募、年齢十五より二十五歳、容姿美にして上品なるもの」これを見て何人の女性が集まったと思いますか?24名の女性が集まったそうでありますな。デパートの見解はこうであります。「人形を着飾らしてショーウインドーに並べただけではお客様の欲求をそそらない」「日本の女の芸をみっちり仕込んで、令嬢、夫人の模範を作りたい」等と当時の「大阪毎日新聞」は書いておりまして、5名が採用になったとのことでございます。
そうそう、皆さん、NHKの連続テレビ小説で1997年4月7日~10月4日に放送されました「あぐり」をご覧になっていましたか?女優吉行和子さん、小説家吉行淳之介さん、小説家で詩人の吉行理恵さんの実母で美容家として知られる吉行あぐりさんを主人公にしたドラマで、田中美里さんが演じるヒロイン・あぐりの美容師にかける情熱と、野村萬斎さん演じる夫のエイスケなど、あぐりを取り巻く人間関係を当時の時代背景等も絡ませて描いておりました。そう、その時代が、この昭和3年頃でございますよ。
そこに出てきたチェリー山岡、名取裕子さんが演じていた役、この方が、翌年昭和4年3月にこのマネキンガールを倶楽部組織にして、東京マネキン倶楽部を創設したのだそうです。これが日本のファッションモデルの走りでありますな。ドラマではチェリー山岡ですが、実際は山野千枝子さんであります。その娘がどろんこ美容ビューティーサロンのあの山野愛子さんですな。あれれっ、話が横道に逸れましたな。これじゃ、いつまで経っても、昭和3年のお話は終わりませんな。
【刺青とミニスカート流行】
昭和3年は、普通選挙で婦人参政権は得られなかったけれど、女性の時代が芽生えつつあったのであります。これまた、関西から流行したのでありますが、この年の5月には、若い女性の間で、刺青が流行したのでありまして、大きな社会問題になっております。最近、安室奈美恵や工藤静香が腕や足首に刺青を入れているとかで、若い女の子の間でブームになっているとか聞いたことがありますが、今から80年前にも同じ現象があったのでありますな。
さらに6月には、女性のスカート丈が膝上まで短くなったそうでありまして、これまた、当時のお兄さん、お父さん、おじいちゃん、洟垂れ小僧やオス犬のポチまで、男性諸君はすべからく大層お喜びになられたのでありましょうか?
そうですな~ぁ、思い起こせば、今から35年前にも同じ光景が・・・。昭和45年(1970年)前後もミニスカートの全盛期でありました。そうです、「天使の誘惑」の黛じゅん、「ゆうべの秘密」の小川知子、「恋のしずく」の伊東ゆかりや「恋の奴隷」の奥村チヨ、歌謡界の可愛いコちゃんは、眩しいばかりのミニスカートでありました。
もりちゃんの通っていた高校は県立高校でありましたが、制服がなく、女生徒は皆ミニスカートでありました。当時、中山律子さん全盛の時でボーリングが流行っておりまして、女の子と一緒にボーリングに行きましたが、プレー中はミニスカートが揺れて、それはもう純真な男の子でありましたもりちゃんにすれば、ハラハラドキドキでありました。おっと、また話が逸れてしまいました。
【カフェ大繁盛!】
てな訳で、昭和3年は、関東大震災の復興から明るさが見え、マネキンガールだの、ミニスカートだの、刺青だの、女性たちもとかくに華やかになってきた時代ですな。銀座や大阪道頓堀ではカフェが大繁盛して、女給さんたちもいっぱい居た。繁華街では結構賑やかさが出て来たのですな。大阪では4月に「道頓堀行進曲」(作詞:日比繁治郎、作曲:塩尻清八)がニットーレコードから発売され、ヒットしていました。大阪ミナミのネオンのあかりの盛り場とそこで働く女給さんを歌った曲です。筑波久仁子さんが歌ってます。
「道頓堀行進曲」って、どんな曲かって?今でも、大阪を代表する歌謡曲として必ず出てきます。特にNHKの大阪放送局は好きですな。ここの制作の歌番組には必ず取り上げられます。海原千里・万理(上沼恵美子)の「大阪ラプソディー」(作詞:山上路夫、作曲:猪俣公章)とは違いますよ。
かしまし娘(正司歌江、花江、照江)の弟子でありましたフラワーショウ(ばら・ぼたん・ゆり)のテーマソングと言えば分かりますか?フラワーショウは松竹芸能の芸人さんです。師匠のテーマソングは、「うちら陽気なかしまし娘~、誰が言ったか知らないが~、女3人寄~ったら~かしましい~とは愉快だね~」でありましたが、弟子のは「赤~い灯、青い灯~ぃ、道頓堀の~ぉ、」ですな。分かりますかな?
この年の秋には、同じ曲に別の歌詞をつけて「浅草行進曲」(作詞:多蛾谷素一)が同じニットーレコードから出ています。浅草オペラの二村定一と天野喜久代がデュエットで歌っております。このレコード会社、一口で二度おいしい商法をやった訳であります。
【女給さんと放浪記】
「道頓堀行進曲」は、実は、当時の人気女優岡田嘉子が大阪の松竹座で公演した「道頓堀行進曲」という劇の主題歌に作られたものだそうです。岡田嘉子さんは、前年には映画「椿姫」の撮影中に相手役で年下の男爵家出身の竹内良一と駆け落ちをしたり(劇の「道頓堀行進曲」は彼女が駆け落ち問題を起こし世間を騒がしたとして再起を図るための興業だったようですな)、10年後の昭和13年1月には演出家の杉本良吉(これも年下でありましたな!)と樺太から雪の中を馬橇に乗ってソ連に亡命したり、いろいろと問題を起こした女優さんでした。
岡田嘉子さん、戦中戦後の10年間をソ連の強制収容所で過ごし、モスクワ放送で日本向け放送のアナウンサーをし、モスクワ大学演劇科で演劇を学び、昭和47年(1972年)に帰国しました。当時、高校生だったもりちゃん、結構ニュースでも取り上げられていたことをよく覚えております。羽田空港に着いてタラップから降りる岡田嘉子さんの姿を覚えています。
岡田嘉子さんは、その後、日本でも演劇活動を再開し、映画「男はつらいよ」にも出演していますな。一緒に亡命した杉本良吉さんは、彼女とともにスパイ容疑で逮捕された後、すぐに銃殺刑となっております。「赤い恋の逃避行」は本当につらい悲劇に終わったのでありますな。でも、岡田嘉子さんはNHKのインタビューで「私は自分の過去を後悔するってことは嫌いなんです」と仰っていました。岡田嘉子さんは、平成4年(1992年)2月10日に亡くなられています。
そう言えば、もりちゃんは女給さんのお話をしていたのでありましたな。またまた話が逸れてしまいましたな。昭和3年の10月に作家の林芙美子さんが、上京、事務員・女工・女給などの職を転々とした体験をもとに、『女人藝術』に「秋が来たんだ――放浪記」の連載を開始しましたな。この連載を元に改造社から昭和5年(1930年)7月に新鋭文学叢書の一冊として刊行された『放浪記』はベストセラーになったということであります。平成17年(2005年)に文化勲章をもらった森光子さん、この『放浪記』(菊田一夫・三木のり平演出)で前人未到の2000回上演を目指しておられるとか。いやはや、恐れ入りやの鬼子母神でありまして、誠に敬服いたします。