1.昭和歌謡の始まり
【5】昭和3年の出来事(下)
【ぼんやりとした不安】
ここまで、昭和3年のイデオロギーに影響された世相を見てまいりましたが、もりちゃんは次に文学、つまり日本近代文学上において、昭和3年が重要な年であったことを語ります!「それって、もりちゃん、昭和歌謡に関係するの?」当然ですよ!少し昭和3年の文学的・精神的な部分を見ていきたいと思います。これも、昭和歌謡を知るうえで、貴重な知識でありますぞ!もりちゃんは日本近代文学を語ります!
前年の昭和2年の夏、7月24日に、「何か僕の将来に唯ぼんやりした不安」という遺書を残し、芥川龍之介(1892-1927)が致死量の睡眠薬を飲んで東京田端の自宅にて自殺しています。彼は、師匠の夏目漱石(1867-1916)よりもキツイ神経衰弱に悩まされていたらしく、5月にも帝国ホテルで自殺未遂をしておりますな。彼の葬儀には千名を超える参列者があったとか。
明治から大正時代に至るまで作家は神経衰弱に侵されていなければ作家ではなかったのかもしれませんな。佐藤春夫(1892-1964)は大正9年に神経衰弱に罹り帰郷しているし、谷崎潤一郎(1886-1965)も大正元年に神経衰弱が再発したとか、芥川の友人であった宇野浩二(1891-1961)も芥川の亡くなる1ヶ月前(昭和2年6月)に神経衰弱で入院しています。芥川は「宇野の病気でみんな恐慌をきたしているよ。いつ自分達がなるか解からないって」(広津和夫「あの時代―芥川と宇野」)と言っていたとか。でもね、芥川以外は神経衰弱に罹ったけれど、昭和30年代まで生き延びて長生きしてますよ!芥川も、もう少し慎重であればなあ?便乗したつもりが、皆さんはバスから降りていたって訳ですな。
神経衰弱の原因は、いろいろあるようですな。生存競争に勝っていけないとか、女性関係の縺れとか、何のために生まれてきたかとか、病弱からの不安とか、芥川のような「何か僕の将来に唯ぼんやりした不安」とか、いろいろです。おそらく、これは急速な近代化の中における自己との葛藤なのでありましょう!煎じ詰めれば、「自己と他者」の問題ですな。これは、日本近代文学のテーマであります。
【「暗夜行路」自己の絶対化】
さて、夏目漱石は「他者」を意識したテーマの作品を多く残しています。「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」という名文句が象徴しております。彼は晩年に「われは常住日夜共に生存競争裏に立つ悪戦の人である」と「思ひ出す事など」で書いております。「自分で自由に生活することなんぞできない。何故なら、そこにはいつも他人がいるからだ」ということであります。
昭和3年には、志賀直哉(1883-1971)の「暗夜行路」の後編が雑誌「改造」6月号から連載されています。(「行路」ですぞ、「航路」だと、平成元年(1989年)に都はるみがプロデュースしたキム・ヨンジャのヒット曲「暗夜航路」作詞:吉岡治、作曲:弦哲也になってしまいますよ!歌謡曲通はこだわります!)この小説の主人公である時任謙作は、自由に放浪の旅をして自由奔放に生き、「他者」を抹殺して「自己」を絶対化した人物として描かれていました。これだと神経衰弱にならないですな。昭和2年の芥川龍之介と昭和3年の志賀直哉では、生き方がまったく違いますな。日本近代文学および昭和の精神史を語るうえで、この時代の境目は大変貴重ではありますまいか!いやはや、もりちゃんは昭和歌謡を語るべくして、文学論を展開してしまいました!勉強になるでしょ!
【張作霖爆殺事件】
さてさて、もりちゃんの昭和3年についてのウンチクは、いつまで経っても終わりそうにないですな。それだけこの年は、いろいろな事が起こり、時代が変わる最中であったと言えますな。日本陸軍が満州を勢力下に置こうと動き始めた年でもあったのです。
志賀直哉の「暗夜行路(後編)」が雑誌「改造」に連載され、文学青年が「志賀直哉は流石に文章がうまいな、小説の神様だ!」なんて言ってる頃、6月4日早朝に「張作霖爆殺事件」が満州で起こりました。この事件は、別名「満州某重大事件」と言われております。何故そのような名が付いてしまっているのか、もりちゃんは語ります。
張作霖(1875-1928)さんは、満州の馬賊からアヘンなどの密売で資金を得てのし上がった軍閥で、日露戦争当時に、ロシアのスパイをやっていて日本軍に捕まったものの、処刑寸前にその才を認められ、当時の陸軍参謀次長の児玉源太郎や少佐の田中義一(爆殺事件時の首相)に説得されて日本のスパイとなり、その縁で満州において日本陸軍(所謂「関東軍」)との関係が深くなったとされている御人ですな。
大正6年(1917年)には、張作霖さんは、「東三省(満州)独立」を宣言して、さらには中国全土をも掌握しようとその勢力を強大にして、北京を一時制圧した程で、大元帥にもなった野心家であったとか。張作霖さんは、愛人をなんと30人も囲っていたとか・・・。いやはやバイタルなおじさんですな。恐れ入ります。
【関東軍・張作霖・蒋介石】
庶民が知らぬところでひどいことが、軍部によって引き起こされたのですな。日本陸軍(関東軍)は張作霖さんを操っていたつもりだったようですが、本人はそんなことを気にせずに、関東軍の後ろ盾で1911年(明治44年)に辛亥革命を起こして中国統一を目指していたあの孫文さん(1866-1925)と蒋介石さん(1887-1975)の「国民党軍」と戦ったり、毛沢東(1893-1976)の共産党軍と戦ったりしておったようですな。
ちょっと、余談ですが、蒋介石さんは、明治40年(1907年)に日本の陸軍士官学校に留学しに来ていて、陸軍士官学校を出てから、明治42年~44年(1909年~1911年)まで日本陸軍に勤務していたんですって。彼が親日派だった理由はここにありますな。そう言えば、孫文さんも日本に一時亡命していますな。
張作霖さんが関東軍の言うことに聴く耳を持たずに「国民党軍」と戦っているので、おそらく関東軍はいろいろとヤキモキしていたのでしょう。蒋介石さんも日本陸軍にいたことがあるので日本と直接戦うことは考えたくなかったかもしれませんが、関東軍は、「国民党軍」と戦うより満州の守備固めに専念したほうがよいと考えたようですな。
「国民党軍」に負けて北京から満州の奉天(現在の「瀋陽」)に列車で逃げ帰ってくる張作霖さんを爆殺することを関東軍の高級参謀の河本大作大佐(1883-1955)が策謀したと言われています。彼は、北京と奉天を結ぶ京奉線で奉天駅近くの満鉄線と交差する地点に爆弾を仕掛け、張作霖さんの乗る列車を爆破しました。ここには現在、日本の関東軍の策謀により張作霖さんが爆死した旨を記した碑が立っています。こんな事実は教科書には詳しく載っていませんでしたな。これって、教科書検定にひっかかる内容かなあ?
【情けなや!田中義一首相】
張作霖さんは即死ではなかったようで、自邸に運ばれ、五番目の奥さんに看取られながら事件から四時間半後に亡くなったそうですな。この事件が日本で報道されたのは、それから2週間以上も経った6月22日です。関東軍は二人のアヘン中毒の中国人を雇い、犯人に仕立て、「捕まえて刺殺した」と発表しています。
首相の田中義一は、天皇の側近で元老の西園寺公望さん(1849-1940)に「しっかり調査をすべきだ。いつ天皇に報告するのだ」と問い詰められるんですな。すると首相は「11月10日の京都御所での昭和天皇の即位の礼が済んだら、天皇に報告します」と言うんですが、先延ばしにしてしまいます。
田中義一首相は12月24日に昭和天皇からこの事件の報告を求められ、「犯人は陸軍の者であるようです。犯人が分かれば厳しく罰します」と答えます。ところが、実は関東軍だけの仕業ではなく陸軍大臣、陸軍省や参謀本部も絡んでいたという事実があったために、有耶無耶にして済まそうとしたようですな。
いやはや、この時、既に日本陸軍は得体の知れない組織になっていたのでありますな。陸軍出身の総理大臣でさえも、コントロール不能!あるいはコントロール不能の人をあえて総理大臣にしたのかもしれませんな。権威・権力・名誉を得てしまった人間で構成された組織というものは、こっくりさんのように思わぬ方向に進み、あれまあ、あれまあで、いい加減なことになるのでありますな。これは、現代にも通じる人間の浅はかな性(さが)でございます。ああ情けなや!
【若き昭和天皇の怒り!】
次に、もりちゃんは、「張作霖爆殺事件」が昭和天皇にどのように報告されたかを語ります。歴史には、くだらない意外な真実があるのですな。
当時26歳の若かりし昭和天皇は、それからまだかまだかと田中首相の報告を待ち続けますが、一向に報告はありませんでした。天皇の側近たちが、かなり催促したのでしょうか、翌年昭和4年5月6日に田中義一首相は宮中に赴きます。「あの事件に日本陸軍とは一切関係していない」「張作霖を警備できなかったのは関東軍に責任があるので行政処分を行う」と報告したのであります。
当初は「関東軍が関係している」と報告しておきながら、それを翻し、軽い行政処分で終わらせたいとする田中義一首相に対し、天皇はお怒りになり、「辞表を出せ」と強く仰せられたのでありました。6月27日に昭和天皇は田中義一首相に辞職を促しています。
にもかかわらず、田中義一首相は、28日に河本大佐らを軍法会議でなく行政処分にしたため、天皇は田中義一首相を再び宮中に呼びつけ「辞めるように!」と告げられたということであります。田中義一内閣は、7月2日に総辞職しました。そして、田中義一は、心労が重なったのか、9月29日に亡くなっています。時の首相も組織の中で翻弄され、結局は命を縮めることになるのですなあ。
【4】昭和3年の出来事(中)
【アムステルダム・オリンピック】
昭和3年は、5月17日から8月12日まで、オランダのアムステルダムで夏季第9回オリンピックが開催されておりますな。参加国は46カ国でした。日本人がオリンピックで初めて金メダルを獲得したのは、このオリンピックですぞ!なんと金メダルは2個ですぞ!陸上男子三段跳びの織田幹雄さんと競泳男子200m平泳ぎの鶴田義行さんです。織田さんの方が有名なのは、鶴田さんよりも6日早く獲ったからですな。
銀メダルも2個、銅メダル1個と日本選手が大活躍しております。銀メダルは、陸上女子800mの人見絹枝さんと競泳男子800mリレーの米山弘さん、佐田徳平さん、新井信男さん、高石勝男さん、銅メダルは競泳男子100m自由形の高石勝男さんです。なるほど、この頃から日本は水泳に強かったのですな。
ここで注目すべきは、陸上女子の人見絹枝さんですな。このアムステルダムのオリンピックで、初めて女子の陸上が採用され、日本選手43人のうち女子は、なんと彼女1人でありました。彼女が得意とするのは走り幅跳びと100m走でありましたが、このオリンピックでは走り幅跳びがありませんでした。彼女は当時100m走の世界記録保持者でありまして、100m走にすべてをかけるつもりでおりました。日本国民も、彼女が100m走で金メダルが獲れるのでは!と大きな期待をしておりました。ところが、期待を背にして緊張したのでありましょうか、どういう訳か準決勝で負けてしまったのですな。さてさて、人見絹枝さんの運命や如何に!
【陸上の女王・人見絹枝!】
彼女は、誰もが金メダルと期待していた100m走を準決勝で敗退してしまいました。絹枝さん、「このままでは日本に帰れない」と思い悩み、無謀にも彼女はそれまで走ったことがない800m走に出ることを決意したのであります。
彼女は800mに臨み、全力を出して、予選を通過しました。でも予選通過9人中8位で、決勝でメダルを狙うには、ちょっと難しい。ところがドッコイ、人見絹枝さん、決勝で、ドイツのバッチャウエル・ラートケという選手とゴール前で凄いデッドヒートを展開しました。
もう競技場の観衆は大騒ぎ!観衆の声が聞えてきそうですな。「あれは何処の誰だ!」「イエローモンキーだ!」「えっ?」「東洋人だ!」「中国人?」「ジャパニーズガールだ!」「えーっ、日本人!」「へーっ、ロシアを破ったあの日本ね?」「あれから二十数年経ちますなあ」「ところで日本って、何処にあるのだっけ?」「それにしても、彼女、スゴイじゃん!」と言ったかどうかは分かりませんが、それまで陸上競技は白人の競技でありまして、東洋人がドイツ人と競っているではありませんか!それはそれは大騒ぎとなったのです。結果は、残念ながら、わずかな差で2位となってしまいましたが、日本の人見絹枝の名は世界に広まったのでありました。
天性と頑張り屋の人見絹枝さん、このオリンピックに出場したとき21歳でありましたが、突然健康を害してしまい、昭和6年(1931年)8月2日に24才7ヶ月で亡くなっています。無理な練習をしたのでありましょうか?あまりにも短い生涯でありますな。絹枝さん、100m走の如く凄い勢いで駆け抜けていったという感じですな。
絹枝さんは、アイデアが豊かな人でもあったようです。甲子園の高校野球で勝ったチームがバックスクリーンに向かって校歌を歌うのや校名を書いたプラカードを持って選手入場をするのを提案したのが彼女らしいのです。もりちゃんの推測ですが、彼女は大正15年(1926年)に大阪毎日新聞の記者になっていたから、毎日新聞主催の甲子園の春の大会で提案したのでしょう!ホンマかいな。日本にも逞しい女性が、男性に負けず登場した昭和の初めの物語をお話しました。
【渋谷天外と水の江滝子】
ここまでのお話では、日本はまだまだ貧しくはありましたが、震災からの経済復興により、庶民生活でも繁華街では明るく賑やかになってきており、女性の華やかさや頑張りがあって、なんとなく頼もしさが窺えますな。
もりちゃん思うに、庶民の文化が花咲き始めたのが昭和3年ではないでしょうか。この年には、あの藤山寛美で有名になった松竹新喜劇の前身であった「松竹家庭劇」を渋谷天外が大阪道頓堀の角座で旗揚げをしておりますし、東京では「東京松竹楽劇部」(後の松竹歌劇団SKD)が設立され、水の江滝子らが入団しております。新しい催し物であり、物珍しさもあり、庶民が娯楽を楽しむようになってきたのであります。そうです「昭和歌謡」も娯楽のひとつとして花を添えていたのですぞ!
ここでちょっと、渋谷天外さんと水の江滝子さんについてウンチクを述べたく、横道に逸れさせていただきます。渋谷天外さん(1906-1983)は戦後に満州から引き揚げてきた藤山寛美さんと黄金の松竹新喜劇時代を築き上げます。天外さんは、喜劇の原作・脚本を数多く書いておられます。ペンネームは「舘直志」(たてなおし)と駄洒落てました。藤山寛美の有名なセリフ「もしもし、お父しゃん?、ボク、寛一(カンイチ)」という「親バカ子バカ」はテレビドラマにもなって、話題になりましたな。
天外さんの奥さんが昭和30年代のオロナインH軟膏のテレビコマーシャルに出ていた女優の浪花千栄子さん(1907-1973)です。「浪花千栄子でございます」という関西弁のコマーシャルは大村崑さんのオロナミンCと一緒に「巨人の星」のときも流れていたかもね?この方も、松竹新喜劇には欠かせない人でした。黒澤明、溝口健二、小津安二郎、木下恵介などの映画にも出てはりましたなあ。何故、彼女がオロナインの宣伝をしてはったか知ってはりますか?浪花千栄子はんの本名が南口キクノ(軟膏効くの)やったからというお話だす。ホンマかいな?ホンマだす。
へてから、水の江滝子さん(1915-ご健在)、戦前は断髪・男装姿で松竹少女歌劇団のスター「男装の麗人」として「ターキー」という愛称で大東亜戦争前まで騒がれてました。滝子さん、昭和8年(1933年)に待遇改善ストライキを起こし、湯河原温泉の旅館に立てこもったが、謹慎処分をくらったとのこと。滝子さん、昭和30年代にはNHKテレビの「ジェスチャー」という番組に柳屋金語楼さんと出演してましたなあ。もりちゃん、小学生の低学年だったのですが、よく見てました。滝子さん、昭和30年以降は日活の映画プロデューサーをしておられたんですよ。あの石原裕次郎を育てた人で、石原裕次郎の映画のプロデュースをしておられました。
おっと、昭和3年の話が、昭和30年頃から昭和45年頃まで跳んでしまいましたな。お読みになっている皆さん、いつを語っているのか訳が分からなくなり頭が変になってしまってますか?
【3・15検挙】
さて、前年の昭和2年の暮れには、浅草・上野間の地下鉄道(今の東京メトロ銀座線の一部)が開通して、昭和3年の浅草や上野は大賑わいだったとか。「おいおい、もりちゃん、昭和3年って、そんなに明るく賑やかだったのかな?どうも昭和初期というと、なんとなく暗~いイメージがあるんだけどなー」う~ん、そうですなあ、ようやく明るさが出てきたのに、この年から、暗い影が漂い始めるのも確かでありますなあ。
昭和3年3月15日に共産党員が検挙されました。いわゆる「3・15検挙」です。6月29日には治安維持法が改正され、結社組織には死刑が科せられることになったのであります。治安維持法といえば、大正14年(1925年)3月に制定されていましたが、死刑という定めがなかったのであります。知らなかった人も多いでしょうな!
普通選挙法が同年の5月に公布され、先般ウンチクを語りましたとおり、昭和3年に2月20日に普通選挙が実施されました。民主化と同時に手綱を締め、様子を見ながら運営を図るという奴ですな。というのも、大正11年(1922年)に7月に日本共産党がソ連のモスクワ・コミンテルンの日本支部として発足しておりまして、モスクワから大量の資金を援助されていたようであります。日本の共産党は、文学の「白樺派」からの流れがあるという説もありますが、発足当時は、インテリが好むインテリの集まりだったとも言われております。
このあたりの話は、立花隆さんの本に詳しく書かれているのですが、昭和2年に幹部たちがモスクワのコミンテルンから呼び出され、モスクワに行くんですね。そこで革命を起こすための指示を受けたそうです。モスクワからの指示は「天皇制の廃止、貴族院の廃止、労働者の武装、天皇・大地主の土地の没収と国有化」でありまして。これが、いわゆる「27年テーゼ」と言われているものであります。なんだか、暗~く、怖~く、なってきますね。
【スターリンの恐怖】
このあたりの話は、学校でも詳しく教えてくれなかったし、実際にあまり知られていないけど、昭和の歴史を語るうえでは、無視できないところであります。もちろん、昭和歌謡を語るうえでもですよ!
共産党の発足当時のメンバーはマジに「天皇制の廃止」と考えていたかは、怪しいと思われますな。天皇や皇族に対する罪は、大逆事件などで分かるように、昭和3年の治安維持法改正の前ですら、死刑となる大罪でした。「自分たちも幸徳秋水と同じになる!」と思い、当初のメンバーであった堺利彦、山川均、荒幡寒村らは党を辞めていきましたからね。
それと、モスクワに呼び出された幹部の話によると、モスクワの指示「27年テーゼ」に抵抗するものなら、直ちにモスクワで抑留され殺されるというような雰囲気だったようですよ。やはりスターリンは怖かったのですな。ここから彼らは変わらざるを得なくなるのですな。スターリン率いるコミンテルンに睨まれ、追い込まれたようですな。そう思うのは、もりちゃんだけでしょうか?
どういう訳か、昭和46年(1971年)の連合赤軍事件や平成7年(1995年)のサリン事件を起こした某宗教団体と似ていますな。信奉する原理があり、それに追い込まれ、自分たちだけの世界に埋没し、自分たちも自分たちを追い込んでいく。そして、仲間まで殺していくというパターンは同じでありますな。人間は組織立つと自分かわいさに異質または弱い仲間を陥れるという恐ろしい幻想の世界にのめり込むのですな。ああ、怖~い!これって、大昔から人類はおサルに近い時からやってきているのかもね。嘆かわしいではありますまいか!
【集団・組織の陥穽】
人間って、集団や組織を組むと、その信奉する原理が常識を逸脱していると、前回お話したようなパターンで良からぬ方向に突っ走るのかもしれません。世界中でいまだに起こっている戦争や紛争などにも、共通しますな。これは人間の習性なのでしょうか?ああ、恐ろしや!情けなや!
人間というのは、この地球上に出現以来、この面で全然進歩していないのであります。もりちゃんが思うに、人間の最も基本にすべき原理は、「生命を大切にすること」ではないかと!これさえ、しっかり守れば変なことにはなりません。しかし、人間はこれをどうやって学び、身に付けるのでありましょうか?
人間は身勝手でありますからなあ!やはり、動物の仲間なのですな。自分のことしか考えない!昔も今も、自分さえよければよいという人間が多いですな。人を蹴落としてでも騙してでも、偉くなりたい、金儲けしたい!こういう人たちは、どのように育ったのでしょうか?嘆かわしいですな!親の顔が見たい?いや、遺伝子を見ないといけないかもね。
遺伝子がそうなっているのなら、そういう生き物・生命だから、もりちゃんの提唱する原理から言えば、こういうヤカラも大切にしてやらなきゃいかんのですな。ああ、ややこしいですな。ホンマに遺伝子がそうなっているのでありましょうか?
ありゃまっ、かなり哲学的なテーマに、もりちゃんの「昭和歌謡ウンチク」は至りましたな!司馬遷も「史記」にて、歴史を振り返って、人間の権力欲・性欲・利己主義などの人間の馬鹿さ加減を嘆きながら語っておりますな。いつかご存知ですか?今頃から2000年前以上の彼方からですぞ!もりちゃんは、今から80年前近くを振り返りながら、人間の愚かな面をを語っております。
でも、今から80年近く前の昭和3年の日本人は、偉大な歌謡曲を作り出したのでありますな!人間の良いところ、愚かなところ、考えさせられますな。
【治安維持法改正と特高】
共産党の幹部たちは「27年テーゼ」を持ってモスクワから帰ってきました。そして翌年の、今、もりちゃんが語っている昭和3年、その2月20日の第一回普通選挙に、労農党の候補者として11名候補者を立てました。モスクワからの多額資金を使ったにもかかわらず、全員落選してしました。そして、官憲にモスクワからの帰国・選挙という動きを見られてか、「3・15検挙」となり、千数百名が逮捕されたと言われています。
それから少し経って、6月29日に治安維持法が改正され、7月3日には、内務省官房に特別高等警察部と全国の警察に特別高等警察課が設置されました。いわゆる「特高」です。翌日の4日には、憲兵隊に思想課も設置されました。当時の共産党の幹部は拳銃を所持していたらしいですな。この年以降、官憲とドンパチ撃ち合いをしたようです。ああ、恐ろしや!翌年の昭和4年4月16日、いわゆる「4・16検挙」では7百名が逮捕され、共産党はほぼ壊滅したと言われています。
いやはや、時代の流れが人を巻き込んでいく様子が分かりますなあ。昭和3年は、大衆の賑やかで華やかな世界とこのように別の暗い怖い重い世界が共存していたのでありますなあ。人はいつの時代にも様々に生きているのでありますな。
【3】昭和3年の出来事(上)
【ラジオで相撲を!】
「波浮の港」が流行りました昭和3年とは、どんな年であったのでありましょうか?歌は世につれ、世は歌につれと申します。昭和歌謡のウンチクを語るには、その歌が流行った時代の背景を語らねばなりません。さてさて、昭和3年とは、どんな出来事があったのでありましょうか?
いろいろと調べますと、昭和3年はこんな時代でありました。まず、1月には、お相撲のラジオの実況中継が始まっていますな。ラジオ放送は大正14年(1925年)から始まっておりまして、夏の高校野球(当時は、全国中等学校野球大会)が昭和2年の8月13日に実況中継されておりますな。それまでは、「移動無線中継装置」というものがお上(逓信省)に認められず、マイクロフォンが屋外に持ち出されることがなかったのであります。ラジオの威力で、夏の甲子園が全国に知られるようになったのでありますな。
お話を昭和3年に戻しますと、お正月の気分覚めやらぬ12日からお相撲のラジオ実況中継が始まり、お相撲の人気もラジオの威力で全国に広まりましたな。長屋のご隠居さんも熊さんは八つぁんも、火鉢に当たりながら、ラジオを聴き、相撲談義をしていたのでありましょう!目に浮かぶようでありますな。この年の東京におけるラジオ聴取契約者数は13万人と言われています。マスコミュニケーションの幕開けでありますな。
【日本最初の総選挙】
さてさて、昭和3年2月になりますと、日本最初の普通選挙が実施されましたな。話は大正12年(1923年)にさかのぼることになりますが、1月20日に日比谷公園の松本楼にて、新聞記者などが集まって、「国民生活の安定と否とは主として政治の良否に繋がり、政治の良否は主として制度の適否に関す。普通選挙の急務にして、断行の一日も緩うべからざるは、国論既に一定せり。」という宣言が採択され、普通選挙運動が日本で始まったのであります。
翌2月23日には、芝公園にて代議士はもちろんのこと婦人参政権を求めるご婦人たち、隣近所のおじちゃんおばちゃんたち一般民衆も集まるは集まるはで、実に2万人も集まって大集会が開催されたといいますな。一般庶民には「フツウセンキョ」が何か、トンとわからない。何の集まりか知らずに、物珍しさでついてきた人もたくさん居りましたようでありますな。ポチやミケの野良犬や野良猫も一緒についてきたようでありますな。それはそれは、お祭りのようであったとか。これが、所謂「大正デモクラシー」でありますな。
【大衆の時代】
大正7年(1918年)11月に第一次世界大戦が終結し、民主主義が世界的に広まったといいます。この情勢を背景に、日本でも東京帝国大学教授であった吉野作造先生(1878~1933年)が「国家の活動の基本的目標は政治上人民に在るべし」と唱える民本主義が大正デモクラシーの理論的支柱となって、普通選挙運動が展開されたということでございますな。
世間がこんなに大騒ぎになっているのに、いつの時代も同じようで、政府は重い腰をなかなか上げようとはしなかったようでありますな。ここで、日本史の質問ですが、大正デモクラシー時代の総理大臣は誰かと聴きますと、皆さん「原敬」をあげますな。原敬が第19代総理大臣の要職にあったのは大正7年(1918年)9月から大正10年(1921年)11月の1133日間でありました。
ちなみに原さんが首相をしているこの間、スペイン風邪と呼ばれた鳥インフルエンザが日本にも上陸し、世界大戦が終わった11月には、関西で大流行し、大正10年までの3年間に発病者は当時の日本の人口が5470万人だったのに対して2380万人、10人に4人が鳥インフルエンザに罹った訳で、死者は39万人にもなったとか。すごく恐ろしい状況でしたのですな。映画「鳥」で鳥の恐ろしさを描いた監督ヒッチコックもびっくりですな。原さんは、総理大臣として普通選挙制度に直接関わったのではなく、皆さん良くご存知の米騒動と鳥インフルエンザ対策に関わったのであった訳ですな。
お話が反れてややこしいのでありますが、あの芝公園での普通選挙運動の大集会があった大正12年(1923年)2月の総理大臣は、第21代加藤友三郎でありました。政府がようやく腰を上げ、官報の号外を出して、衆議院議員選挙法改正法の裁可を報じましたのは、2年後の大正14年(1925年)5月5日でありました。その時の総理大臣は第24代の加藤高明で、衆議院議員選挙法改正法の施行令案が内務省から発表されたのは、大正15年(1926年)1月29日でありました。
いったい総理大臣は何人変わっているのでありましょうか?ひ~、ふ~、み~と数えますと、6人ですよ。へぇ~っ、ぶったまげますな。政治家の政治家による政治家のための政治でありますな。これが大正デモクラシーですか!
こういうこともあってか、昭和3年(1928年)2月20日に行われた普通選挙の結果は、与党の政友会が過半数を獲れず、野党の民政党が政権を獲りました。大衆の力による大衆時代が日本に訪れたのでありますな。そのような時代の流れの中、4月に「波浮の港」は発売されたのであります。
【マネキンガール登場!】
歴史には、政治的な流れ、文化的な流れとかがあります。文化的な流れをご紹介しますと、3月24日に上野公園で御大礼記念博覧会が開催されました。デパートの高島屋が(いやいやその頃は「高島屋呉服店」と言っていましたな。)、展示場で和服の出品をしたのでありますが、普通は人形のマネキンに和服を着せて出品したと思いきや、ファッションモデルの走りとでも言いましょうか、出品の和服を着た人間の女性のモデルが登場しました。これを「マネキンガール」と呼びまして、正式な職業名は「美装員」と言いましたそうであります。
これがかなりの評判となったそうでありまして、お兄さん、お父さん、おじいさん、洟垂れ坊主やオス犬のポチまで、男性諸君はすべからく、「御大礼記念博覧会に行ってくる」とかなんとかと言いながら、マネキンガールを見に、上野公園に向かって走ったそうであります。ホンマかいな?
もともと、マネキンガールは、この年の1月に京阪神のデパートが協力して新聞広告を出したことに始まります。「評判娘急募、年齢十五より二十五歳、容姿美にして上品なるもの」これを見て何人の女性が集まったと思いますか?24名の女性が集まったそうでありますな。デパートの見解はこうであります。「人形を着飾らしてショーウインドーに並べただけではお客様の欲求をそそらない」「日本の女の芸をみっちり仕込んで、令嬢、夫人の模範を作りたい」等と当時の「大阪毎日新聞」は書いておりまして、5名が採用になったとのことでございます。
そうそう、皆さん、NHKの連続テレビ小説で1997年4月7日~10月4日に放送されました「あぐり」をご覧になっていましたか?女優吉行和子さん、小説家吉行淳之介さん、小説家で詩人の吉行理恵さんの実母で美容家として知られる吉行あぐりさんを主人公にしたドラマで、田中美里さんが演じるヒロイン・あぐりの美容師にかける情熱と、野村萬斎さん演じる夫のエイスケなど、あぐりを取り巻く人間関係を当時の時代背景等も絡ませて描いておりました。そう、その時代が、この昭和3年頃でございますよ。
そこに出てきたチェリー山岡、名取裕子さんが演じていた役、この方が、翌年昭和4年3月にこのマネキンガールを倶楽部組織にして、東京マネキン倶楽部を創設したのだそうです。これが日本のファッションモデルの走りでありますな。ドラマではチェリー山岡ですが、実際は山野千枝子さんであります。その娘がどろんこ美容ビューティーサロンのあの山野愛子さんですな。あれれっ、話が横道に逸れましたな。これじゃ、いつまで経っても、昭和3年のお話は終わりませんな。
【刺青とミニスカート流行】
昭和3年は、普通選挙で婦人参政権は得られなかったけれど、女性の時代が芽生えつつあったのであります。これまた、関西から流行したのでありますが、この年の5月には、若い女性の間で、刺青が流行したのでありまして、大きな社会問題になっております。最近、安室奈美恵や工藤静香が腕や足首に刺青を入れているとかで、若い女の子の間でブームになっているとか聞いたことがありますが、今から80年前にも同じ現象があったのでありますな。
さらに6月には、女性のスカート丈が膝上まで短くなったそうでありまして、これまた、当時のお兄さん、お父さん、おじいちゃん、洟垂れ小僧やオス犬のポチまで、男性諸君はすべからく大層お喜びになられたのでありましょうか?
そうですな~ぁ、思い起こせば、今から35年前にも同じ光景が・・・。昭和45年(1970年)前後もミニスカートの全盛期でありました。そうです、「天使の誘惑」の黛じゅん、「ゆうべの秘密」の小川知子、「恋のしずく」の伊東ゆかりや「恋の奴隷」の奥村チヨ、歌謡界の可愛いコちゃんは、眩しいばかりのミニスカートでありました。
もりちゃんの通っていた高校は県立高校でありましたが、制服がなく、女生徒は皆ミニスカートでありました。当時、中山律子さん全盛の時でボーリングが流行っておりまして、女の子と一緒にボーリングに行きましたが、プレー中はミニスカートが揺れて、それはもう純真な男の子でありましたもりちゃんにすれば、ハラハラドキドキでありました。おっと、また話が逸れてしまいました。
【カフェ大繁盛!】
てな訳で、昭和3年は、関東大震災の復興から明るさが見え、マネキンガールだの、ミニスカートだの、刺青だの、女性たちもとかくに華やかになってきた時代ですな。銀座や大阪道頓堀ではカフェが大繁盛して、女給さんたちもいっぱい居た。繁華街では結構賑やかさが出て来たのですな。大阪では4月に「道頓堀行進曲」(作詞:日比繁治郎、作曲:塩尻清八)がニットーレコードから発売され、ヒットしていました。大阪ミナミのネオンのあかりの盛り場とそこで働く女給さんを歌った曲です。筑波久仁子さんが歌ってます。
「道頓堀行進曲」って、どんな曲かって?今でも、大阪を代表する歌謡曲として必ず出てきます。特にNHKの大阪放送局は好きですな。ここの制作の歌番組には必ず取り上げられます。海原千里・万理(上沼恵美子)の「大阪ラプソディー」(作詞:山上路夫、作曲:猪俣公章)とは違いますよ。
かしまし娘(正司歌江、花江、照江)の弟子でありましたフラワーショウ(ばら・ぼたん・ゆり)のテーマソングと言えば分かりますか?フラワーショウは松竹芸能の芸人さんです。師匠のテーマソングは、「うちら陽気なかしまし娘~、誰が言ったか知らないが~、女3人寄~ったら~かしましい~とは愉快だね~」でありましたが、弟子のは「赤~い灯、青い灯~ぃ、道頓堀の~ぉ、」ですな。分かりますかな?
この年の秋には、同じ曲に別の歌詞をつけて「浅草行進曲」(作詞:多蛾谷素一)が同じニットーレコードから出ています。浅草オペラの二村定一と天野喜久代がデュエットで歌っております。このレコード会社、一口で二度おいしい商法をやった訳であります。
【女給さんと放浪記】
「道頓堀行進曲」は、実は、当時の人気女優岡田嘉子が大阪の松竹座で公演した「道頓堀行進曲」という劇の主題歌に作られたものだそうです。岡田嘉子さんは、前年には映画「椿姫」の撮影中に相手役で年下の男爵家出身の竹内良一と駆け落ちをしたり(劇の「道頓堀行進曲」は彼女が駆け落ち問題を起こし世間を騒がしたとして再起を図るための興業だったようですな)、10年後の昭和13年1月には演出家の杉本良吉(これも年下でありましたな!)と樺太から雪の中を馬橇に乗ってソ連に亡命したり、いろいろと問題を起こした女優さんでした。
岡田嘉子さん、戦中戦後の10年間をソ連の強制収容所で過ごし、モスクワ放送で日本向け放送のアナウンサーをし、モスクワ大学演劇科で演劇を学び、昭和47年(1972年)に帰国しました。当時、高校生だったもりちゃん、結構ニュースでも取り上げられていたことをよく覚えております。羽田空港に着いてタラップから降りる岡田嘉子さんの姿を覚えています。
岡田嘉子さんは、その後、日本でも演劇活動を再開し、映画「男はつらいよ」にも出演していますな。一緒に亡命した杉本良吉さんは、彼女とともにスパイ容疑で逮捕された後、すぐに銃殺刑となっております。「赤い恋の逃避行」は本当につらい悲劇に終わったのでありますな。でも、岡田嘉子さんはNHKのインタビューで「私は自分の過去を後悔するってことは嫌いなんです」と仰っていました。岡田嘉子さんは、平成4年(1992年)2月10日に亡くなられています。
そう言えば、もりちゃんは女給さんのお話をしていたのでありましたな。またまた話が逸れてしまいましたな。昭和3年の10月に作家の林芙美子さんが、上京、事務員・女工・女給などの職を転々とした体験をもとに、『女人藝術』に「秋が来たんだ――放浪記」の連載を開始しましたな。この連載を元に改造社から昭和5年(1930年)7月に新鋭文学叢書の一冊として刊行された『放浪記』はベストセラーになったということであります。平成17年(2005年)に文化勲章をもらった森光子さん、この『放浪記』(菊田一夫・三木のり平演出)で前人未到の2000回上演を目指しておられるとか。いやはや、恐れ入りやの鬼子母神でありまして、誠に敬服いたします。
【2】昭和歌謡の始まりは、昭和3年!
昭和2年に新生のレコード会社が設立され、昭和3年から新譜の曲が次々と発売されました。昭和歌謡の起源は、昭和3年なのであります。
昭和歌謡の第一号は、野口雨情作詞、中山晋平作曲の「波浮の港」であることをご存知の皆さんは少ないと思います。この曲は、昭和3年4月にビクターレコードから佐藤千夜子(ちやこ)が歌い発売されましたが、7月に藤原義江が吹き込んでから、全国に広まったようですな。なんと数ヶ月で10万枚が売れたといいますな。
当時に10万枚も売れたというのは、凄いですな。当時のレコードは、何種類かあって値段が違ったそうでありまして、当時大卒の初任給が60円程であった時代に、10インチの黒い盤は1枚1円50銭、赤盤や青盤は2円50銭、直輸入の原盤は4~5円もしたそうですな。
藤原義江のレコードは赤盤で2円50銭だったということですから、初任給の24分の1、現在ではいくらになるかと申しますと、現在の大卒の初任給は20万円くらいですから、8300円にもなりますな。蓄音機も普通の庶民の家にはなく、カフェーやダンスホールしかない頃に、ホントによく売れたものですなあ!
【1】昭和歌謡の起源
大正天皇が崩御されたのが、大正15年12月25日で、昭和元年は31日までの6日間だったというのをご存知でしたか?天皇の崩御というと、昭和天皇が崩御されたのは昭和64年1月7日で平成元年になり、1月だったということもあり、どの家もカレンダーは昭和64年のままで使いましたな。「昭和」を線で消して「平成」に変えるゴム印が販売されたりもしましたな。てな訳で、1月から始まった平成元年とちがって、昭和元年はすぐ終わり、昭和2年に入ったのであります。
では、「昭和歌謡」の歴史は、昭和2年から始まったのでしょうか?ところがそうではないのですな。ちょうど昭和2年当時は、まだ国内にレコード会社は数社あったのですが、資本力と技術力がなく、大正14年から始まったラジオ放送に国民の関心が集まっておりました。その頃は、関東大震災からの復興で日本経済建て直しの真最中で、国内品使用奨励政策とやらを進めていたために、輸入レコードに10割の輸入関税が課せられ、外国のレコード会社も困っておりました。
大正15年には、NHKが設立され、ラジオ番組も充実し、いろんな音楽が流れるようになりました。しかし、リクエスト番組はなく、聴いている者からすればいつどんな音楽がかかるかわからない。自分の好きな音楽を聴き逃すことが多くなってきます。そうなってくると、ラジオで流れていた曲を、レコードで聴きたくなるというのが人間の心情ですな。そこで、国内のレコード会社は、資本力・技術力のある外国のレコード会社と組もうという動きが出てきます。
昭和2年5月に阿南商会がドイツのグラモフォン社と契約を結び、日本ポリドールレコードを設立、9月には米国のビクターが日本ビクターを設立、日本蓄音機商会が英国と米国のコロムビアレコードと手を握って、昭和3年1月に日本コロムビアレコード会社を設立しましたな。
昭和歌謡は、レコード会社が整って始まります。ということは、昭和3年からということになります。昭和3年には、「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲、佐藤千夜子・藤原義江歌)が日本ビクターレコードから発売され、大ヒットしたのであります。